人命は尊い。医療は、病気や怪我で命を絶たれようとする人にとって、最後の希望だ。しかし、コストの負担には限界がある。「医療費、過去最高の38.4兆円 12年度1.7%増」(日本経済新聞2013年9月10日)の文脈にあるように、医療費は圧縮されるべき、と多くの人が考えている。
ソリリス、という薬がある。まれな血液疾患「発作性夜間ヘモグロビン尿症(PNH)」の特効薬だ。
この病気は、赤血球が破壊(溶血)されて貧血を起こす。また、血管内に血の塊(血栓)ができて、血流が妨げられる。血栓ができることの恐ろしさは、いわゆるエコノミークラス症候群でご存じの通りだ。実際、PNH患者の大半は、血栓症が原因で死亡する。
ソリリスの薬代は、年間約4,000万円かかる。そして、高額療養費返還制度の対象となり、4,000万ほとんど丸々が健康保険の保険者から支払われる。
ソリリスの効能は、溶血に伴い増加する血清乳酸脱水素酵素(LDH)値の低下、ヘモグロビンの安定化、および濃厚赤血球輸血単位数の減少などの指標(surrogate marker)の改善を根拠とした、溶血の抑制効果に過ぎない。血栓症の減少効果は、現時点では不明である。
つまり、この薬は、貧血の進行は抑えるらしいが、元気に長生きすることにつながるか否か、いまだ不明なのだ。そして、どのような状態のPNH患者につかうべきか、という絞り込みもなされていない。
なお、ソリリス治療開始前に髄膜炎菌ワクチンの接種が必要だが、日本では販売されていない。そこで海外渡航者向けにワクチンを個人輸入しているトラベルクリニックへとPNH患者が紹介される。これも厚労省の怠慢による異常事態だ。承認された保険診療に先立って、未承認のワクチンを自費で接種しなければならないのだから。これは混合診療ではないのだろうか?
そして、私は、血液内科医としてはじめて、大勢のPNH患者を診察する機会に恵まれた。当院でワクチン接種をおこなった患者の8割は70歳以上であった。中には、どのような治療を受けるのか理解していない、認知能力の低下した方もいた。しかも、純粋なPNHでなく、骨髄異形成症候群にPNHが合併した方が多かった。このような患者へのソリリスの有効性は不明である。
私は違和感を感じた。果たして、健康保険で認められているからといって、この方々は年間4,000万円もする薬を使っても良いのだろうか。
PNHは、いままで同種造血幹細胞移植か、赤血球輸血しか治療法がなかった。移植はドナーが必要だし、治療自体の危険性が高い。輸血は、回数が増えると体に鉄が沈着し、糖尿病や肝硬変、心筋傷害など全身に合併症を引き起こす。患者、医師とも、もっと良い治療法の登場を待ち望んでいた。だから飛びつく気持ちはわからないではない。しかし、この4,000万円には、もっと有効な使い途があるのではないだろうか。
これら患者の多くは、市区町村が保険者(2017年に都道府県に移管予定)である国民健康保険に加入している。国民健康保険は自営業者、無職者、高齢者が加入しており、慢性的に赤字が続いている。低所得を理由に、5世帯に1世帯は保険料を滞納しており、滞納者は健康保険の支払いが受けられない。「TPP交渉への参加は国民皆保険制度を崩壊させる」などの日本医師会の主張があるが、すでに国民皆保険は実質的に破綻している。
日本では、保険者は、承認されている治療法について、一律に医療費を支払っている。これでは、ただの打ち出の小槌だ。効果のある治療法を承認する薬事法上の手続きと、保険者が医療費を支払うか否かは、元来一体ではない。英国スコットランドやニュージーランドなど、ソリリスは費用対効果が見合わないとして、公的保険での支払いは受けられない国がある。
健康保険の保険者は、治療法が費用対効果に見合うか否か、自ら検証し、医療費の適正な支出に資するべきだ。